101年


自分のいるところ、それを明らかに知ることが次に踏み出す大事な事かもしれない。 自分をここに運んで


きたものは、自分自身が意識して、そうしたものではなく、他人が無理にそうしたものでもない。 


大きな自然の中で戯れるモンシロチョウのように、まるで時の流れに漂わされてきた一人の漂流者。 


しかし、自分が今いる場所には偶然か、はたまた天意がそうさせたのか、夏の太陽に大輪の花を開花させ


ようとする陽の気が充満していたとしたら、この居場所に潜むそうした生命力を目にしたり、匂いを嗅いだり、


そして体の中の血が騒ぐこともあるだろう。 自分の五感がうずいて居てもたってもいられなくなるだろう。


もし、その気や流れを、感じ取ることが出来たとすれば、あとは天に任せて生きていけばいい。 


いつの時代でも必ず人の中に人が居る。 有能な人は人の中に埋もれている。 しかし悲しいかな、それを


見出す人が少なくそれを持ちうる組織が弱体化し有能もみな無能に帰してしまうこともある。 


10年語り合っても理解しえない人と人。 そして一時の宴の間に100年の友となる人と人もある。 


生きていると、いろんなことに出くわして、様々な事象に巻き込まれてしまう。


デンマークにいたドイツ人がビール瓶に葉書を入れて海に流したのが1913年5月17日のこと。 


「この瓶の発見者はこの葉書を同封の切手を使用して差出人のベルリンの自宅に送ることを望んでいる」と。 


1913年の翌年、1914年8月に第一次世界大戦が勃発し1920年までドイツは戦争。 このビール瓶は


その後、第二次世界大戦も生き延びて、ドイツのキール近郊の海の底を漂っていたところ、漁師の網に


かかって長い旅を終えることになる。そして親族で唯一生き残っていた孫娘は60歳を超えていた。 


その孫娘は101年前のビール瓶を、涙を流して受け取ったらしい。   


それぞれの行為が今は意味のない事でも、やがて、その意味を成すことがある。 


どんな些細なことでも、それが意味を成す日がきっと来る。 


ある人に巡り合う為に彷徨い、またある人はその人に出会う為にじっと陽の目を待っている。


そんな縁を見逃さず生きて行きたい。 もしかしたら明日にもそんな縁に出会うかもしれないのだから。 


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