虐げること


憎しみ、敵意、闘争、非難、偽り、恨み、自己愛などに捕らわれている時、人は真実を見る目を失って、偏った見方をする


ようになります。しかし、自分を盲目にする、それらの心の要素を克服した時、人は不動の真実の目を知ることになります。


たとえば、ある少年が非力で小柄な少年を虐待したとします。するとそれを見ていた男が非力な少年に何をするんだと


言って、その少年に鉄拳を振るいます。続いて、その様子を見ていた、もっと強い男が、無力な子供に何をするんだと


言って、少年を殴った男を殴り倒します。 そして3人が3人とも悪いのは自分ではなく相手であると考えます。最初の


きっかけを作った少年でさえ、非力で小柄な少年に対する攻撃は、やむを得ないことだったと主張するでしょう。


このようにして無知が憎しみと不和を引き起こすと、その人は激しい感情と敵意の中に住み続けることになると思うのです。


憎しみは憎しみを生み、不和は不和を引き寄せます。殺す人間は殺され、奪う人間は奪われ、虐げる人間は虐げられ


責める人間は責められます。 そして同じ感情でも能動的なものと受動的なものは、お互いが補い合うように、どちらから


ともなく引きあい、近づくようです。だます人間とだまされる人間。虐げる人間と虐げられる人間。そして攻撃する人間と


攻撃される人間が引き寄せ合うのは、その為なのでしょう。


世の中には、たとえ誰かにどんなにひどく扱われようと決して傷つくことがない人もいます。自分に何が起ころうと、それは


自分自身がそれ以前に作った原因の結果であることを知っているからかもしれません。自分に起こる全ての出来事を良い


ものと捉え、そのすべてを喜ぶのです。自分を呪う相手さえも祝福します。盲目ではあるけど偉大な法則に対する自分の


道徳的負債の支払いを可能にしてくれた有難い存在であると捉えているかのように。


原因と結果は分離できません。 人間は一旦、何らかの原因を創ったならば、その結果は必ず憑いて回ると考えた方が


良さそうです。 そして原因を持たずに発生する物事は何一つなく、発生することの全てが、そうなる為の正当な理由を


持っていると考えるのが無理のない解釈です。 逆に考えると発生を運命づけられているものなど何一つないという考えに


行き着きます。 人間は何かを愛することで、そのことを必ず引き寄せてしまいます。いいことも悪いことも。


明日のあなたは、あなたの思いがあなたを連れていく場所にいるでしょう。 過去から思い続け、描きつづけた人間になる


ように、あなたの思いの結果から決して逸脱することはありません。 心の表面でいくら願い事しても叶わないのは心の奥底


にあるものが、そうなっていない為ではないでしょうか? ソラマメの種からはソラマメしか出来ません。なのでソラマメの種


を蒔いて小麦が出来ますようにといくら祈っても無駄なことなのです。原因と結果の法則は絶対なのですから。


一人でも多くの人に、このことを伝えて行きたいとつくづく思っています。そうすれば冒頭の三人のたとえ話の原因と結果も、


おのずと分かってくると思うのです。


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