声を聴きたい


気が付けば、今年も1/3が過ぎていた。 庭の木香バラの黄色い花は咲いたと思ったら、もう散り出していた。


桜が咲いたのは、もうずいぶん前の事のようだ。 1年365日の1日1日が大切な宝の山であるはずなのに


私は小判の前の猫のようであり、真珠を与えられた豚のように無駄に時を浪費してきてしまったように思える。


それでも、そんな時の価値を忘れた放蕩息子にも宇宙は、一向に惜しまず、また浪費をとがめず、新たな年を


また与えてくれる。 そして、春には桜を咲かせてくれる。 


人に会うのも、これが最後と思えば、言葉も動作もよくなるものを、、、。 私は何をしてきたのだろう。


この一食で最後だと思えば、梅干しとごはんでも味わい深いものだと感じるものを、、、。


1日1日を大切に生きねば。 大切な、そして平凡な生き方に感謝しなければ。 


何不自由ない時が続くと、そんな宝をも忘れて日々を惰性で送ってしまう自分がいる。 


私の身体に血液が流れているのは知っている。 しかし、それは当然だと思っている。 当たり前だと、、。


さっき夕食で食べた物が消化され、それが栄養となり身体の隅々まで行き渡ってくれている。当たり前、、。


しかし私の知らないうちに胃や腸、すい臓、肝臓、腎臓は全力を挙げて懸命に働いてくれていることには気が


回らない。 そこまで暇ではないのだからしようがない。 そんなことを思う横柄な自分がいつも顔を出す。 


自分の身体なんだから何とかなるだろうという気持ちで蓋をしてしまう毎日。 ずーっとそうしてきたのだから。


「これで絶対大丈夫なんだ」と言いきかせている自分がいる。 自分の身体は自分のものだから何とかなると


粗末に扱ってしまう。 しかし病気になりたくない時に病気になるし、下痢をしたくない時に限って下痢をする。 


咳き込みたくない時に必ず咳がでてしまう。 そして死にたくない時に死ぬだろう。 


だから、そういう意味からも自分の身体は自分のものではない。 いわば借り物の身体なのに不平・不満


を並べてしまう。 誰でも、いつかは、お返ししなければならないこの身体。 よもやそのことを忘れてはなるまい。 


そういう生き方を毎日送らねば。 一期一会を大切に毎日を送らねば。 そんなことを思いながら、この四か月を


振り返ってみると、それはひいき目に見ても、やはりまるで猫に小判の生き方に近いものでしかない。 


今日、5月11日は「母の日」。 この身体を生んでくれた母を思う日。 宝塚で一人でいる母。 そんな母に感謝


している。 今日、電話してみよう。 川口の実家から関西に移ってもう長い。 川口を思い出す懐かしい思い出話


がいいかな。 生きている母にただ「ありがとう」を伝えてみよう。 今年7月には81歳になる母。 生きているうちに


何度も「ありがとう」と伝えたい。 ぶっきらぼうで扱いにくい子供であっただけに猶更だ。


今日の母の日、空手クラブの子供たちの「お母さん、ありがとう」をどれくらい聞けるだろう? 


10年経っても20年、30年経っても、何年経っても母を大切に思う子供であって欲しい。


そして素直な心を忘れない子供であって欲しいと、一人一人の顔を思い浮かべながら願うばかり。 


私もそんな子供たちの心のように素直に活きてみようか。 あらたむるに遅きことなし。なのだから。


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